マルタ島2日目、本日も快晴なり。
雲一つないという表現がぴったりの碧空の下、私達はマルタ共和国の首都ラ・ヴァレッタに向かった。
聖ヨハネ騎士団総長ジャン・パリゾ・ド・ラ・ヴァレットが名前の由来となったこの町は、大きな岩山をなすシべラス半島の両側に開いた2つの港を護るために、城塞都市の先駆けとして建築された。
ここで、聖ヨハネ騎士団について、触れてみたい。9世紀半ば、イタリアの都市国家の一つアマルフィの商人が、聖地エルサレムに巡礼用のホスピスと修道院を建設した。その後、施設はフランス人騎士ジェラール・タンクらが継承し、巡礼者への慈善活動と保安を図った。
1130年、第一回十字軍がエルサレムを征服後、パスクワーレ2世は、この修道組織を聖ヨハネ騎士団(聖ヨハネ病院騎士団)として正式に認可し、ここに騎士団が生まれた。西欧勢(キリスト教)とイスラム勢が武力で争奪しあったパレスティナの地において、聖ヨハネ騎士団は、医療奉仕と貧者への施しを続けながら、他の騎士団とともに、武力勢力を伸ばしていった。
1291年パレスティナを追われた騎士団は、キプロス島に逃れ、イスラム船団と戦いながら、病院事業に力をそそいだ。1308年、騎士団はロードス島を征服して移住。当時の最高水準の治療を施すといわれた病院経営の傍ら、近海を航行するイスラム船を襲撃し、キリスト教解放に励み、オスマン・トルコと対立していった。
1453年、スルタン・マホメット2世率いるオスマン・トルコ軍が、ビザンチン帝国首都コンスタンティノーブル(現イスタンブール)を陥落させ、東ローマ帝国は滅亡。その後騎士団は度々トルコに攻撃され、領土を奪われる。
1520年、オスマン・トルコのスレイマンは、攻撃目標をシリア、エジプトへの海路を塞ぐ騎士団に定め、大軍をロードス島に差し向ける。数で圧倒的に劣る騎士団は、約5ヶ月という激しい篭城戦の末に降伏し、ロードス島を追われた。その後騎士団は、一旦ヴェネツィア領クレタに入り、シチリア他各地を流転したが、1530年、スペイン王兼神聖ローマ帝国皇帝カール2世は、イスラム海賊討伐を目的に、マルタ島を騎士団に譲渡した。
マルタ島民は、騎士団が海賊の攻撃から護ってくれることを期待して歓迎した。騎士団は、トルコ軍の攻撃を受けて、海岸に多くの要塞を建設すると同時に教会、宮殿、水道橋なども建造し、島に文化芸術を持ち込んだ。その中でも騎士団がマルタに残した最大の遺産は、マルタ十字と呼ばれる先端が8つに分かれた星である。
1565年、トルコ軍はヨーロッパ侵攻の拠点としてのマルタ諸島を掌握すべく侵攻した。トルコ軍48000人に対し、聖ヨハネ騎士団は、たったの8000人だった。騎士団総長ラ・ヴァレットは、浜辺でトルコ軍と対決するのを避け、城塞内部にマルタ軍兵を配置したが、長期戦に耐え切れず聖エルモ砦が陥落した。
その後、シチリア島から駆け付けた援軍もあり、騎士団はトルコ軍撃退に成功した。オスマン・トルコからヨーロッパ全体を救ったマルタ軍に主要国が感謝し、救援物資が送られて、新都市の建設が始まった。
新都市の名前は、オスマン・トルコのスレイマンからマルタを護った総長の名前、ラ・ヴァレットがつけられた。マルタの歴史は、この都市にあるTHE MALTA EXPERIENCEで約30分の短編映画がお勧め。日本語訳のイヤホンもあるので、わかりやすく楽しみながら勉強でき、観光のヒントもたくさん仕入れられる。
今まで遠い存在だった異国の、歴史の教科書でしか知らなかった話を身近に感じると、いろいろ想像を膨らませてしまう。するといつの間にか、その時代に入ってしまった自分に気づく。私にとって旅をする大きな楽しみの一つだ。
受験生だった時、ちょっとだけかじった十字軍誕生の秘密が解き明かされ、宿敵スレイマンを撃退して誇らしげなラ・ヴァレットが、立っているような景色だ。建物の挟まれた通りは、騎士団の赤い旗が翻っている。観光バスならぬ観光馬車が行きかう海岸の道は遠く中世の足音が響き、厳しい戒律を課せられた騎士団の、凛とした勇姿が見え隠れしているかのようだ。
次回は、いよいよマルタの自然を満喫する観光へ出かけます。お楽しみに。
次回へ続く
コメント:
素敵なマルタ旅行が続きそう。興味津々。
投稿者:Siesta
ごぶさたしてます。マルタ島、どの写真も風情があって素敵ですね。世界史は苦手でしたが、歴史を感じるとワクワクします。私は、地元でライターのお仕事をもらえそうです! 裕子さんのお話もまた楽しみにしています。
投稿者:Kakehi